こんにちは!
合川です。
「読書記録日記」と言いながらも、最近は日記の方に比重が傾きがちな今日この頃。
久しぶりに本について書こうと思います。
今回取り上げる本はこちらです。
角川文庫
左側のハードカバーの本も『罪と罰』で、訳者が江川卓さんです。
文庫本で買って読んだのですが、以前古本屋さんでハードカバー本も見つけついつい購入。
ハードカバーの方にはドストエフスキーに関する資料が載っているので、それが読みたくて買いました。
以下、簡単なあらすじです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
時は19世紀。酷暑のペテルブルグ。
7月の初めだというのに、うだるように暑い日のことであった。
狭苦しい下宿の小部屋の中、貧乏学生ラスコーリニコフはとある思想のもと、ある計画を企てていた。
彼の思想、それは「ひとつの罪悪は百の善行によって償われる」「選ばれた非凡人は、社会を発展させるためならば、たとえ道徳や法律を踏み越えても構わない」という極端なものであった。
そして、彼は自分こそが選ばれし非凡人であると信じていた。
世の中の貧困や不条理は、ある種の人間によって引き起こされるーー例えば、悪名高い高利貸しの老婆・アリョーナのような者だ。
この老婆が死ねば、この女から金を借りていた貧乏人は救われるだろう。
老婆がたんまりため込んでいた金は、貧乏人のために、社会の救済のために使われるべきである。
この思想のもとに、ラスコーリニコフは高利貸しの老婆を殺害する計画を企て、実行する。
しかし、アリョーナの殺害現場にその義妹・リザヴェータが現れたことで彼の計画は狂い始める。
「悪人」であるアリョーナだけではなく、罪のないリザヴェータも殺害してしまったのだ!
罪の意識に苛まれるラスコーリニコフ。
「自白して楽になりたい」「捕まりたくない」という葛藤の狭間で、幻覚に苦しみながらも、ペテルブルグの町を彷徨う。
終わりの見えない苦しみの中、信心深い娼婦・ソーニャと出会ったことで、彼の運命は大きく転換する。
娼婦として後ろ指をさされながらも家族のために懸命に働くソーニャの中に、彼は神と救いを見出す。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
簡単なあらすじ、と言いながらいつも長くなってしまいます。
調べればいくらでもあらすじは出てくるのですが、リライトするのが楽しいんですよ。
*以下ネタバレがあります! あと長ぇ!
私はクリスチャンではないのですが、文学作品の中に描かれるキリスト教世界・救済には心を動かされるものがあります。
例えばこの一節。
ラスコーリニコフがソーニャに自身の罪を告白した際に、ソーニャが彼に向けて言い放った言葉です。
お立ちなさい! (中略) すぐ、今すぐ行って、四つ辻にお立ちなさい。そして身をかがめて、まずあなたが汚した大地に接吻なさい。それから、世界じゅう四方八方へ頭を下げて、はっきり聞こえるように大きな声で、『わたしは人を殺しました!』とおっしゃい! そうすれば神さまがまたあなたに命を授けてくださいます。行きますか? 行きますか? (後略)
初めて読んだ時に、このシーンでもの凄い衝撃を受けました。
人の罪を罰するのは刑法でも社会でもなく、自分自身の深い悔悛である。
本当に自分の罪を自覚していれば、他者から与えられる罰よりも、自らが自らに与える罰の方がよっぽど苦しいですよね。
それは単に自罰的であるということではなく、本当に自らの罪を自覚し、己を苦しみの中に置く覚悟が持てるかどうかということだと思います。
その覚悟があればあなたは許されても良いですよ、神が許さない罪はないですよ、ということですかね。
違ったらごめんなさい。
宗教的な考えを抜きにしても、この考え方は非常に大事だと思います。
私は死刑制度に興味があるのですが(死刑制度の是非はひとまず置いておいて)、人が人を裁くこと、人が人を救うこととは何なのかを考えています。
大学での研究のテーマにしようと思い、夏休みで色々本を読んでいました。
まだまだ浅いところの考えですので、なんとなく読んでもらえればと思います!
凶悪事件が起きた際に、私たちはその残虐性にばかり注目してしまい、すぐに「死刑がふさわしい」「死んで償え」と考えてしまいがちです。
死刑囚の中には「死刑になりたいから犯罪を犯した」という者も少なくはありません。
そして刑の確定から執行まで期間が開くと「この鬼畜をだらだらと生かし続けるために税金払ってんじゃねえぞ」という意見も出ます。
ネットには「確定した即日執行でおk」みたいな意見も……。
現在の執行のペースを鑑みるとそれも一理ありますが……。ンー、難しい……。
一日でも早い執行が被害者遺族の心を慰めるのであれば、それもそうなのかなとも思います。
現段階では加害者サイドに比重を置きながら、そういった本を読んでいるところです。
加害者に目を向けた場合、私は彼らが一人の人間として(人間になって)罪を償ってほしいと願っています。
自らの罪と正面からきちんと向き合うのは苦しいことです。
同時に、法によって科せられる罰があること、自らの命の終わりを悟ること。
色々なものに押しつぶされて発狂しそうです。たぶん発狂すると思います。
(宗教は様々ですが、)宗教の教えを用いながら、死刑囚が穏やかに自らの死を受容できるよう、教誨師が死刑囚を教え諭すお手伝いをします。
その過程で、宗教の教えと共に、彼らは自らの犯した罪と向き合うことになります。
そこに私は死刑制度を考える際に、一つの大事なポイントがあるのではないかと考えています。
宗教の力を借りながら、「罪人が自らの罪を自覚する」こと。
罪を犯した人の「反省」とは何か。罪人に救いはあるか。
システムで執り行われる償いではなく、本当の償いとは何なのか。
これらは必ずしもすべて論理で説明できることではないかもしれません。
感情が先走り、正しさを見失うことがあるかもしれません。
私の知らないこと、考えが至らないことの方が多いと思います。
ですが、2世紀前に出版された本が、これらの問題を考え、新たな視点をもたらす可能性を秘めているのではないかと思っています。
宗派や自身の生活と宗教の結び付きの強さ・影響力に関わらず、人間の本質的なところを突いてくる作品だと思います。
ぜひ読んでみてください。
あ、『カラマーゾフの兄弟』も併せて読むとよりいいかもしれません。
あとめっちゃ長い。