こんちは!
久しぶりにパソコンから書いています、合川小春です。
最近「人間のありのままを受け入れて生を慈しみたいよな」という考えに至っています。一周回って。
自分でも一体何があったんだと思っています。
以前から「生きとし生けるものの安寧を願っているよ~~♡(ガチで)」とか言ってた気がするんですけど、それを突き詰めた結果かもしれないです。
きっかけは多分先日の研究会だと思っています。
教育(子ども)関連の実践報告だったんですけど、子どもが云々って言うよりは、
人間が自らのよりよい生を求めようとする生来の力ってすごいよなって圧倒されて帰ってきた感じです。
よりよい生って、ソクラテスがいう道徳的な意味での「善く生きる」に近いような気がする。
だって「もっとよく生きたい!幸せになりたい!」って思うのは自然なことじゃん。
(思わない人もいるかもしれない)
当たり前だけど、よい生や幸福の基準は人それぞれ。
極端な話、「もっとよく生きたい!幸せになりたい!」って言ったときに、
「もっと贅と酒池肉林の限りを尽くしてウッハウハのハッフハフ!」が幸せと考える人もいるかも。
それでもいいと思いますよ。我欲と肉欲にまみれた人だなぁとも思うけど。
酒池肉林に限らず、買い物とか名声とかバズとかの刹那的な快楽(を消費すること)によさを見出すのって虚しくないか?
じゃあ何によさを見出せばいいんだ? 自分にとっての幸福ってなんだ?
ウワ~~~~~~~~!!!!!!!!
って泥沼にはまるじゃないですか。
私も今これ書きながら泥沼にはまってるんですわ。
そうなった時に、子どもが求める「もっとよく生きたい!幸せになりたい!」って何だっけ? って立ち返ってみます(泥沼の中から)。
「子どもが求めるそれって、やっぱ文字通りの意味じゃね?」って思うんですけど、どうでしょう?
私は「子どもは完全に純真無垢な存在である」と信じて疑わないわけではないです。
子どもだって自分の保身のために嘘をつくこともあるし、「残酷な天使」だと感じる瞬間ってあるじゃないですか……
大人も子どもも、文字通りの意味での「もっとよく生きたい!幸せになりたい!」って欲求があるんだろうけど、大人になればなるほどそれを正直に外に出すことが難しくなりがち……。
そういう欲求を、自分はそういうつもりじゃないのに、勝手に大人の言葉や尺度をもって測られてしまう。なので、大人は自分の正直な気持ちを抑圧してしまうのでは?
幸か不幸か、大人は子どもになれないです。
でも大人も文字通りの「もっとよく生きたい!幸せになりたい!」って欲求を、抑圧しなくていいんやでと思っています。
もちろん、子どもと大人でその欲求のディテールや「ぼくの考えるよく生きるの実践」で生じる結果や責任などは違うと思う。
けど、大人も子どももその欲求の根っこは同じなんじゃないかなと思う。
己の幸福追求への欲求を抑圧しないことが人間のありのままを曝けだすということなのかなと思ってる。(でも己の幸福追求の欲求ってどこまで?酒池肉林欲とか承認欲求とかも入るのか?って堂々巡りに陥ってるかも)
だから私は「人間のありのままを受け入れて生を慈しみたいよな」と思うんですよ。
幸せになりたいとかよく生きたいっていう欲求をもっと渇望してほしい。
ビバ!生(せい)! 御多幸あれ、人間。
……って思うから、人のことを恋愛的な意味で好きになりにくいんだよな~~!!!!
どんな人でも、老若男女人間みんなうっすら好きで、みんな幸せになってほしいと思ってるから。人類を見守る上位存在かい!
齢21にして恋より愛なのよ。全人類への。
誰かぼくに恋愛をさせてくれ……
恋愛させてくれじゃないな、全人類よりちょいウエイト置いた個人への愛を注がせておくれ……
人間のありのままを曝け出せる人間関係を構築しませんか……
つって、偉そうに色々言ったってそういう話かい!!というオチです。
論理めちゃめちゃだし所々堂々巡りに陥ってしまっている。
おやすみなさい!!